JavaScriptを有効にしてください

合理的な人間関係は不要

 ·  ☕ 2 分で読めます
Photo by Engin Akyurt from Pexels

Photo by Engin Akyurt from Pexels

俺はあらゆることを合理的に考えられるようになりたいけれど、人間関係については合理性を含ませると良くないと思っている。

人間関係が得意でない自分は、つねづね友達が欲しいと思っている。
しかし一方で、自分は本当に友達が欲しいのか?とも思うときがある。
周りからの暗黙のプレッシャーがあって友達がいないと社会から責められるという不安から友達を作ろうとしているのではないか?

つまり必要に迫られて人間関係を求めるということはある
でもそれは、求める理由が自分の外にあるということだ。

例えば、客観的に見れば全然必要ないようなものがものすごく欲しいとする。たとえば壺とか。必要がないのに欲しいというのは、自分が無条件にそれを欲しているということで、逆説的にそれは自分にとって一番必要なものだと言えるんだと思う。

男女の関係などでいうなら、
一緒にいる理由として、お金があるからとか、容姿がいいからとか、自分と価値観が合うからとか、自分の短所を補ってくれるからとかいうことがある。
そういったもっともらしい理由は、逆にいうとそれが満たされなくなった瞬間に一緒にいる意味を失うということなんだろうと思う。

もちろんそれが悪いというわけではない。
結婚なんていうものは元来合理的かつ経済的な理由と結びつく文化であり人間の習性であって、必ずしも一緒にいたいからいるというものでもない気がする。
ただ、前述のような理由を並べて、自分がある人を好きな理由と同じ意味で使うのはまちがっているかもしれない。

本当に好きなのは、客観的に見れば全然良くないのに好きになってしまうといったことだと思うのだ。
合理的な理由がないのに自分の欲求が動かされるのは、それが本当の意味で自分の中にある意思に基づいているからである。
カントのいう定言命法である

といって自分も人間関係についてベラベラと理屈を喋ろうとしてしまっているが、つまりどうしたいかというと、客観的にいらないだろと思われるような友達こそ大事にしたい。
そして女性でいうなら、人には自慢できないけれど、なぜか魅力を感じてしまうそんな人を大事にしたい。

そんなふうに思う

共有